【百読は一読にしかず】 残り0.14の壮大ロマン、再び
June 24, 2016

dog_hello

みんな、今日その手にある仕事を、ひとつ踏み込んでやってみようよ。
誠意でも、懇意でも、週末手前のふんばりでも、気まぐれでもいい。

なんで俺が?私が?の前に、万理自然をスタートにしようよ。
自分を振り返るなんて簡単だよ。
反省というと、多くの人が「非を認める」ことと勘違いをするけれど、これ実は違うんだよね。
反省とは「かえりみる」こと。ただ自分と向き合うこと。
「んーどうなんだ、今の俺?」
みっともないことないよ。心の中までは、誰も見てないもん。
ムッキーもう耐えられないってとき、私は最近、こう考えることにしている。
「ホントのプロは、なぜ穏やかに仕事ができるのだろう? そこを、目指していたんだよな?」
そうすれば、最後に必ず「ごめん」「ありがとう」「全然いいよ」の花が咲く。

例えば、サイエンスは「どうしてこうなるのかな・・」って考えるから、研究が始まる。現象を無視して、推測から始める研究は、ほぼ間違いなく失敗する。
人を責め立てるより、ソリューションをつかんだ方が、ずっとすっきりする。
これに慣れてくると、自分に非があるときも潔く認められる。それが次に進むソリューションだから。
非と思えないのならば、もう一度現象を見直して、議論に議論を重ねればいい。泥まみれで戦えばいい。
雨降って地固まる から、雨すら降らなくなった今の時代に、それはとっても必要なことだ。

泥まみれで戦うのなら、勝ち負けじゃなく、ソリューションを見つけ次の行動に移せるまで、やる。
どんなに泥沼になろうとも、逃げだしたくても、さじ投げて誰かに泣きつきたくても、始めたのは自分だ。
最後まで絶対にゼッタイにやめないこと。責任を果たす。これはもっと重要なことだ。

世の中を「仕事」やら「友達」やら都合のいい言葉に片づけていたいなら、徹底をしよう。
人を諭したいのなら、自分を見て、その人を血眼で観てからにしよう。
諭すというのは、それだけの重大な責任がある。
お互いの立場も知らず諭してしまうと、とっても器が小さく映ってしまってカッコ悪い。
徹底をしないのは、非を認めるよりも、器が小さいよりも、ずっともっとカッコ悪い。

相手を見つめていると、そのうちに何も言えなくなる。
本当の優しさは、痛みをわかってこそ効果がある。
優しくしてもなぜか嫌われてしまうのは、その人の、そのときの気持ちを分かっていないから。

常識は、その言葉自体が時代によって流動するけれど、
円周率が3になってはいけないのと同じくらい、大事なことがある。
けっこう、まだごろごろある。まかり通っているものもある。
そうして一生が終わる。残り0.14分の壮大ロマンを知らぬまま。

分かったような言葉を並べたぶん、自分の反省をする。
わたしがここまで思考が至っても、いまだにできていなことがある。

仕事をしないで仕事したつもりになったり、
プロにならないでプロを掲げたり、
リスペクトを持たないでリスペクトを求めたり、
一方的に言葉を投げただけでコミュニケーションを語ったり、
そういった π=3 のごろごろたちを、見てみぬふりできないところ。
本人が議論の泥の中からソリューションを・・・つまり落とし前をつけない限り、角へやりこめてしまうところ。
友達だ、愛だと求めてもなお、時代に警鐘をならさなければという気持ちがまさってしまうところ。
だから、友達は少ないのである。それでも、この世界もっとよくなると信じている。
難しい話をせずに、気楽に笑って飲める友達は、救いではあるけれど。

時代がどうあっても、許せる心なんて、持てるのだろうか?
そんな年の取り方が想像できないから、啓蒙の道に出てみた。

言葉が言葉で通じないのならば、言霊や心理まで、あらゆるものが同期(シンク)できる社会がいい。
別名、動物くんくん社会。ニオイでお互いを知るって、素晴らしい。

我々ひとりずつ、一歩だけでも踏み込んだなら、
1日・1分・その瞬間だけでも、昨日よりもイかした自分になれたら、
シンク時代が訪れる日は、せめて近づくはずだから。

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